小さな恋の物語
イギリスの首都・ロンドン サウスケンジントンのALEX邸
アイリーンが水差しの乗ったお盆を手に持って、廊下を歩いている。
ALEXの寝室の前まで来ると、お盆を片手で持ち直してノックした。
「どうぞ〜」
のんびりと、力の抜けた声が返ってくる。
アイリーンはドアを開けた。
「まぁ！アレックス、ダメよ、寝てなきゃ」
パジャマにガウンを羽織った姿で、ALEXはキーボードを叩いていた。
ボリュームを絞ってあったので、部屋の外に音が聞こえなかったのだ。
「もう退屈だよ。少しくらいならいいだろう？」
「ダーメ！一昨日まで高熱を出して寝込んでいたのは誰？」
「はいはい・・・」
ALEXはキーボードの電源を落とすと、ベッドに戻る。
持ってきたお盆をベッドサイドのテーブルに置くアイリーン。
「お薬の時間よ。・・・はい」
「ん・・・」
アイリーンに差し出されたコップを手にとって、薬を飲むALEX。
粉薬が少し喉に残ったのか、顔をしかめている。
「苦い」
「ふふふ。相変わらず、粉薬は苦手そうね」
薬の包みを小さく折り畳みながら、ベッド横の椅子に座るアイリーン。
ALEXは、そのままベッドに横になった。
「あと１０日しかないのよ。早く治さないと・・・」
「大丈夫さ」
「ワールドツアーの疲れがでたのね。アルバム作りして、そのまま行くから・・・。
少しは休みを入れないと」
「早く片づけてしまいたかったのさ・・・ありがとう」
ALEXは、アイリーンの手を取ると指先にキスした。
そのまま、二人は手を握りあう。
「明日、ハリーがここに来るそうよ」
「ハリーが？久しぶりだな、どうしてるんだ？」
「来月の学会で、いよいよ発表ですって。去年の私の論文が、ルナ・パレス全体に
ついてだったから、ハリーはやっぱり副葬品に絞ったみたい」
「オーパーツ？」
「ええ。あの月笛や剣があれば、もっとすごいことが書けたかも知れないけど、
他の副葬品だけでも十分すぎるくらいだって・・・」
「月笛に天の剣、か・・・」
二人の思考が、同じ人物にたどり着いたことに気づいたアイリーン。
「さぁ、明日ハリーに会うためにも、もう少し寝ておかないと・・・」
「眠くないよ」
「大丈夫。さっきのお薬は眠くなるはずだから。横になっていれば、
そのうち寝てしまうわ・・・ね」
「おやすみのキスをしてくれよ」
握り合っていた手をグッと引き寄せるALEX。
ベッドに身を乗り出して、唇を重ねるアイリーン。
「眠るまで、ここにいるわ」
「あぁ・・・」
目を閉じるALEX。
アイリーンはベッドに腰をかけると、眠るALEXを見つめた。
肩の辺りまで髪が伸びたALEXは、こうしてみていると
「月読様」に見える。
「（あの頃も、こうして月読様が眠るのを見ていたっけ・・・）」
あの時のことは、鮮明に覚えている。
再び自らを封印する為、月笛を持ち去った月読様・・・
何か言いたそうだった、あの瞳。
私の背中をそっと押し出した、手の温もり。
『月読さまーーーっ！』
封印されたその瞬間、胸にこみ上げてきたありったけの思いを込めて叫んだ。
あの気持ちが何だったのか、よくわからない。
ただ、月読様の気持ちに応えることが出来なかった自分が、とても悲しかった。
アイリーンは、そっとALEXから目をそらして窓の方を向いた。
自分に背を向けたアイリーンの様子を、薄目を開けてうかがうALEX。
アイリーンの髪は、今では腰の辺りにまで届きそうなほど伸びている。
『切らないの？』
『東洋では、願い事が叶うまで髪を切らないおまじないがあるんですって。』
『願い事をしているの？』
『・・・まぁね。』
結局、アイリーンはその願い事がなんなのか、最後まで言わなかった。
『口に出してしまったら、効果が無くなるんですって。だから、ヒ・ミ・ツ！』
新しいアルバムは大ヒット。事務所も移籍して、ワールドツアーも成功し
ALEXの人気は、再び世界中を席巻していた。
富も名声も手に入れて、たいていのことなら思うままになるこの自分でも、
叶えることができない願いなのだろうか。
こんなに髪が伸びるほど、アイリーンが願い続けていること・・・
「（あいつなら・・・月読なら叶えられるんだろうか。）」
時々、ふと不安になる。
アイリーンも消えてしまうのではないか、と。
ずっとそばにいて欲しい。いや、そばにいたい。
その為なら、俺は何だって出来るのに・・・
瞼が重くなってくる。
ALEXは、眠りに落ちた。
ALEXの部屋を出て、階下に降りるアイリーン。
ちょうど、家政婦のピアスが階段を上がろうとしているところだった。
「あ、アイリーン様。ハリー様がお見えです」
「ハリーが？明日じゃなかったの？」
「予定が繰り上がったんだ。・・・元気そうだね」
応接室の戸口にハリーが立っていた。
「ハリー！」
駆け寄って、抱擁するアイリーン。
「どう？みんなは元気？発掘は進んでる？」
「あぁ、もうほとんど終わったよ。君の書いてくれた指示書が良かったんだ。
お陰で僕も、いい論文が書けたよ」
「頭の固い教授連中をアッと言わせるんでしょ？」
「世界中をアッと言わせてやるさ！」
顔を見合わせて笑うアイリーンとハリー。
「アレックスは？具合が悪いんだって？ピアスさんがさっき・・・」
「少しね・・・風邪よ。疲れがでたみたい」
「そうか、それならいいんだけど・・・１０日後だろ？結婚式」
「えぇ」
頬を染めて、恥ずかしそうにするアイリーン。
そんなアイリーンを見て、微笑むハリー。
「やっとだな・・・お幸せに」
「ありがとう、ハリー」
「なぁに、もし夫婦喧嘩でもして愛想が尽きたら、いつでも戻ってくればいいさ。
でも、その前にアレックスに１発お見舞いしてやらなきゃ！」
ボクサーのマネをして、拳を繰り出してみせるハリー。
それを見てアイリーンはおかしそうに笑っている。
「結婚式には、来てくれるでしょ？」
「もちろんだよ。君の幸せを、ちゃんと見届ける」
真面目な口調で答えるハリー。
アイリーンは、自分が多くの愛情に守られていることを深く感じた。
１０日後。
厳かに、式が執り行われている。
立会人には、ピアス夫人とマッコイが駆けつけてくれた。
ハリーを始め調査団の面々や、マーキュリーズの顔も見える。
「汝、この者と夫し、その健やかな時も、病める時も、
喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命のかぎり、堅く節操を守ることを誓いますか。
「はい、誓います」
アイリーンの澄んだ声が、教会に響いた。
「では、指輪の交換と誓いのキスを」
シンプルな指輪を交換すると、ALEXはアイリーンのベールをそっとあげた。
ALEXの顔を見上げるアイリーン。
「アイリーン、その髪・・・」
腰まであったアイリーンの髪は、肩にも届かない短さにバッサリと切られていた。
ニッコリと微笑むアイリーン。
「今日・・・たった今、願いが叶ったから」
周りに聞こえないよう、小さな声でささやくアイリーン。
不覚にも、目頭が熱くなるALEX。
「アイリーン！」
ALEXは、きつくアイリーンを抱きしめた。
驚きながらも身を任せるアイリーン。
「これ！抱擁ではなく、誓いのキスです！」
慌てて神父がたしなめる。
「わかってますよ！」
アイリーンから体を離し、神父に返事をすると、
もう一度、彼女の方へ向き直るALEX。
「アイリーン・・・永久の愛を神じゃなく、君に誓うよ」
「私もよ、アレックス・・・」
二人の唇が重なると同時に、祝福の鐘が町中に響きわたった。